しあわせのハードル

なんでもない日々に、しみじみと思うこと。
 
私は、できるだけ小さくまとまっていたい、と思うふしがある。小さい世界で、心の通いあった人や居心地のいいものだけに囲まれて、地味でも穏やかな日々を重ねていけたらどんなにいいだろうと思っている。外に目を向けたらまだまだ見たこともない楽しい世界が広がってるんじゃないかとか、じぶんの偏った考えに固執しないようにいろんなタイプの人と関わって見聞を広げたほうがいいんじゃないかって思ったりもするけれど、結局のところこれが私の本質だと思う。
 
すごく鮮明に覚えてることがある。
 
保育園に通っていたころだから、4才のときのはなし。私はたいてい双子の弟を含めた友だち数人で遊んでいたのだけど、その日は二人だけで遊んでいた。休み時間が終わったことにも気づかずに。。そのうち先生が廊下に出てきて私たちを叱った。もしかしたらそれまでにも何度か注意をしていたのかも知れない*1。「早く教室に入りなさい。それともずっとそこに二人でいる?」すなおな私たちは同時に答えた。「いやだ」「うん」。もちろん後者が私。
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先生は、二人だけで廊下に出されるなんて、そんなの嫌でしょう?だから早く入りなさい、という意味でそう言った。でも私は、心から「うん、そうする!そうしたい!」と思った。二人でずっとここにいていいの?やったー!・・・そんな気持ちだった。でも同時に答えた弟の泣き声まじりの「いやだ」を聞いて、ああそういうことか、、、と、つまらなくなってしまった。先生はそういう反応を望んでいたのか。弟みたいな「子どもらしい」反応はどうやったって私の中からは出てこなかった。だって嫌だなんてこれっぽっちも思えなかったのだ。まあ、どちらにせよ声の小さい私の「うん」は、先生の耳に届いてなかったみたいだけれど。
 
あのとき「うん」と答えた保育園児は、変わらないまま私の中にいる。
 
小さくまとまろうとする裏には、現状に満足しがち、っていう性質もあると思っていて。大切な人が、家族が、友人が(少ないけれど)いて、働く場所があってごはんを毎日食べられて。好きなアイドルもいるしお気に入りの音楽や本がいつもそばにある。ときどき旅行にいったりできるし、そうじゃなくてもお弁当を持って散歩に出かければ最高に幸せだと思える。これ以上なにを望むんだろう。欲を言えば健康でいられればそれでいい。
幸せを感じるハードルが低いのは何も悪いことじゃない。でも現状キープ欲が強かったり、変化に弱かったりするこの性格が、もしかしたらある可能性をなかったことにしているのかな、とも思う。世の中こんな人間ばっかりになったら、争いごとはなくなるけれどそれ以上の発展も見込めないんだろうな。さいわいダンナは「あれもしたい!これもしたい!これをこうしたらもっと良くなるんじゃない!?」というアクティブな精神の持ち主なので、バランスが取れているのだ、ということにしているけれど。

・・・まあそうはいっても会社に行けばいろんな人がいるわけで。仕事じゃなかったら絶対関わりたくない人とも一緒に働かなくてはいけないし、理不尽なことも多々ある。それに、「なんでもない日常」の繰り返しがあたりまえのことではなくなった今、私の小さい世界のなかにあるものだけは、なにがなんでも絶対に守りたい、という思いを抱いているのだった。

*1:ちなみにこの保育園、むちゃくちゃ恐くて嫌でしょうがなかった。逆に幼稚園は楽しい思い出しかない。